第二海軍航空廠鈴鹿支廠専用線跡


  まずは地元の廃線跡を巡ってみようと思うが、その前に鈴鹿市の歴史を少し振り返ってみよう。
   昭和13年(1938)、鈴鹿海軍航空隊が設立されたのを皮切りに昭和15年(1940)には三菱航空機整備工場、陸軍第一航空軍教育隊が設立され、昭 和17年(1942)までに第二航空廠鈴鹿支廠、三菱航空機製作所三重工場、鈴鹿海軍工廠、陸軍第一気象連隊など軍の施設が次々に進出した。
  このため人口が増加した。また海軍工廠が四つの村にまたがっており、工廠の運営が難しかった事などから戦時中の昭和17年(1942)12月に鈴鹿郡五村、河芸郡二町十二村が合併し、海軍工廠を中心とした鈴鹿市が誕生した。

  
近鉄白子駅から二空廠への専用線跡を見る事ができる。

昭和40年(1965)国土地理院発行地形図使用、全体図
鈴鹿支廠専用線跡



 近鉄名古屋線白子駅から左へ二空廠専用線は延びていた。現在はイオンSCになっていて面影は何一つ残っていない。
 写真は地図のA地点の踏切から撮ったものである。

白子駅付近
白子駅付近2

白子駅付近写真
2015.4.12撮影





 白子駅を出て、SCを抜けると廃線跡は住宅街を斜めに通っていきます(B地点)。
 しかし区画整理がされて昔を偲ぶことはできません。

江島
江島2

白子
2015.4.12撮影





 住宅地を抜けてきた廃線跡はAGF鈴鹿体育館の西(C地点)で現在の国道23号線に沿う様になる。撮影当時はうどん屋であったが、2017年現在は無くなっている。
 写真右手が体育館。左手の信号が国道の交差点。

体育館前
体育館前2

体育館前
2015.4.12撮影



 
 体育館前から江島台二丁目までの国道23号線下り線側の歩道は他の区間に比べて広い。おそらくこれが廃線跡なのではないかと思われる。
 写真は四日市方面を向いて撮影。

国道沿い
国道沿い2

国道23号線
2015.4.12撮影




 江島台二丁目の交差点から廃線跡は東に逸れてゆく。現在は斎場、警察署になっている。
 右前方には第一鈴鹿海軍航空基地の正門跡がある。

斎奉閣
斎奉閣2

斎奉閣
2015.4.12撮影




 警察署の敷地を抜けると廃線跡は生活道路となっている(F地点)。自転車屋の裏、パチンコ店の裏を通ってゆきます。

あさひ あさひ2

あさひ
2015.4.12撮影




 パチンコ店の裏を過ぎて、フジクラ電線へ通じる道を横切った所(G地点)で廃線跡は二手に分岐する。左の舗装道路は海軍航空基地に隣接していた二空廠(三菱重工業整備工場)へ、前方への空き地は三菱重工業三重工場への線路であった。
 空き地には開渠が残っている。
分岐
分岐2

分岐
開溝
2015.4.12撮影


 舗装道路は西へと曲がって再び国道23号線と交わる(H地点)。


多楽
2015.4.12撮影


 一方、空き地の先は田古知川と交わる(I地点)。しかし新たに護岸整備されていて橋台等は残っていない。


田古知川
2015.4.12撮影




 田古知川を渡ったあと、廃線跡はまた生活道路になって玉垣団地の中(J地点)を抜けている。

玉垣団地
玉垣団地2

玉垣団地
2015.4.12撮影




 玉垣団地の中を東へと曲がってゆく(K地点)。緩やかなカーブがかつて線路であったことを思わせる。

団地
団地2

団地
2015.4.12撮影




 玉垣団地を抜けると廃線跡は鈴鹿医療科学大学の千代崎キャンパスへと続く道になる(L地点)。廃線跡は千代崎キャンパスで終点である。
 三菱重工業三重工場であった場所は千代崎中学校と呉羽紡績になり、呉羽紡績は東洋紡に
そして医療科学大学へと変遷している。

大学
大学2

大学
2015.4.12撮影




 分岐点からの舗装道路は国道23号線を横切り、2015年に開園した桜の森公園に沿って西へ続く。
 桜の森公園の場所は戦時中鈴鹿海軍航空隊の練兵場があった場所である。戦後、電通学園となり、NTT研修センターと名を変え、現在は鈴鹿医療科学大学白子キャンパスと桜の森公園になっている。

桜の森
桜の森2

桜の森
2015.4.12撮影




 廃線跡は住宅地に入り生活道路となる(N地点)。ここは実家から100mと離れていないが、この道が廃線跡だとは全然知らなかった。

アピタ
アピタ2

暁
2015.4.12撮影


 更に進むとアピタ鈴鹿店の裏側に出る(O地点)。この辺りは鈴鹿海軍航空隊に隣接していた三菱重工業鈴鹿整備工場の中心にあたる。


アピタ
2015.4.12撮影


 アピタ鈴鹿店の裏を過ぎると自動車では通行できない未舗装路となる(P地点)。右手(西側)は日東紡跡地、左手(東側)は鈴鹿工業高等専門学校のグラウンドである。線路がどこまであったのか、通路左側のコンクリートが戦時中の遺跡かどうかは定かではない。


アピタ奥
2015.4.12撮影




おまけ1

 廃線跡ではないが、近鉄名古屋線の前身である伊勢鉄道(現在の伊勢鉄道とは別会社)が大正4年(1915)に白子〜一身田間に開通。翌年に千代崎へ延伸している。
 当時、白子〜千代崎間の伊勢街道と交わる所(あ地点)に玉垣口という駅があった。伊勢鉄道が伊勢電気鉄道になった昭和元年(1926)に廃駅になっている。昭和4年(1929)発行の地図には「たまかきくち」が掲載されている。
 私が子供の頃は塩浜街道にバス路線があって、この場所には「地蔵前」というバス停があった。
 今は路線バスも通らなくなって、駅の面影は無い。

玉垣口
玉垣口2

玉垣口 玉垣口2

玉垣口3
2016.8.18撮影



おまけ2

 二空廠(三菱重工)専用線跡の沿線には当然の事ながら鈴鹿海軍航空基地があった。現在も正門と番兵塔が保存されているので紹介したい。
 正門跡は国道23号線の鈴鹿警察署前の信号交差点を警察と反対側に曲がると在る(い地点)。
 三重県道41号線亀山鈴鹿線の旭が丘区間はそのほとんどが滑走路だった。
正門跡
正門跡2

正門跡 正門跡2

正門跡3 正門跡4
2015.4.12撮影